雲仙普賢岳の噴火を振り返る|火山災害の恐怖と防災意識の重要性
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2025年冬、家族で実家のある長崎県島原市に帰省しました。
久しぶりに「土石流被災家屋保存公園」を訪問。当時のことが思い出されひとりごとを書き留めることにしました。

静かに始まった
1990年の秋頃、私は中学生でした。自転車で移動していたのを覚えています。
自転車で移動しながら、山から煙が立ち上っていることに気づき「山火事だ!」と慌てて自宅へ戻り、父に「山が火事かもしれんよ!煙の上がっちょる!」と報告しました。
父も山の何か所からか上がる白い煙を覚えているそうです。
夕方帰宅すると、ニュースで「雲仙普賢岳の火山活動のニュース」を見て、あれは噴煙だったんだと驚きました。
ただ、噴煙以上活発になることはなく、生活が変わることはありませんでした。
溶岩ドームの誕生
半年ほど経ったある日、山の山頂付近に大きな丸い溶岩の塊ができたとニュースの映像とともに知ります。
「溶岩ドーム」という名が付きました。
見たこともない自然現象に地元民は沸いていたと思います。
1日1日成長をする溶岩ドーム。
数日すると溶岩ドームが桃太郎が出てきた後のような形で「パカッ」と割れました。
桃太郎の桃だと、近所でも話題になっていました。
そのころから、溶岩ドームが少しずつ崩れ始めます。
夜暗い中、溶岩ドームを見ると崩れる様子が花火のようで綺麗だと話題になり、ちょっとした観光スポットのように麓に人が集まるようになりました。
私も見に行った記憶があります。
溶岩ドームが崩れたところが赤く火花が散ってとても神秘的でした。
火砕流発生
地域にある小学校の運動場から空を見ていた記憶があります。
空一面に、灰色の積乱雲がもくもくと立ち込め激しく動く様は不安を煽りつつも自然の圧倒的パワーへの興奮をかきたてるものでした。
それほど間を置かず、大雪が降るように火山灰が降り始めます。
本当に雪のようで、九州は降雪があまりないからか喜んだように思います。
誰かが、建物に入ろうと言い出し移動しました。
建物の中ではじめて、降ってきたものを観察します。
指でこすり合わせると、さらさらしているけれどギシギシしたような砂でした。
「小さな小石のようなものもある」と誰かが言っていました。
火山灰は時々降ってきていたので、大雪のように降ってきたものが火山灰であることはすぐにわかりました。
ただ、降ってくる火山灰が異常なほど多く「山が爆発した」と思い、言葉にできない恐怖心から急いで帰宅しました。
自宅で食い入るようにニュースを見ました。
内心で「逃げないで大丈夫なのかしら」と思いながら、必死でニュースを見ました。
映画や外国のニュースで、川のように流れてくる溶岩のことが頭の中でいっぱいになります。
でも、どの番組も川のように流れる赤い溶岩は見当たりません。
灰色の雲が、山肌を流れるように走る映像ばかりで、そこで初めて「火砕流」という言葉を知ります。
昔、ポンペイという島が一晩で火砕流でなくなってしまったということは知られていましたが、実際本物が発生し映像で撮られるのは世界で初めてのことだと言っていました。
それほど稀なケースだったようです。
この初めて見る火砕流で、多くの犠牲者が出たことを知りました。
本格的な災害の始まり
1990年6月に起こった大火砕流から生活環境が変わっていきます。
観光地のようになっていた溶岩ドーム観察ポイントの人が減りました。(報道などメディア関係者はいました)
多くの犠牲者を出した溶岩ドームを好奇心で見に行くことは不謹慎だからです。
火砕流で同級生の自宅が焼かれましたと聞きました。
知り合いが焼かれたなどの言葉も聞きました。
市内の病院に被害者が運び込まれていたのを見た人もいました。
多くの人の話がどんどん不安に煽られた話題にかわっていき、毎日のように発生する火山灰の空は太陽の光を遮り、日中も薄暗かったように記憶しています。
小規模の火砕流は頻繁におこり、次は自分の住む地域に火砕流が来るかもしれないと不安を抱く人が増え始め、住まいを手放し避難をはじめるのに多くの時間は必要としませんでした。
私の親戚も島原市から長崎市へ避難した人が何人もいました。
ちょうど、そのころ私の家にも避難を促す電話が入ります。
小さな自宅だったので、父が電話で話しているのが聞こえていました。
全部は聞こえませんでしたが「もう少しここに残る」「避難するときは、自分(父)は残り子供達を逃がす」ということが聞こえました。
電話を聞きながら「火砕流や土石流で死ぬかもしれない」「家族と離ればなれになってしまうかもしれない」という不安と恐怖に、子供だった私は上手く感情と向き合えず泣いた記憶があります。
繰り返す火砕流と土石流
火砕流と土石流大火砕流と小さな火砕流は、火山活動5年間で9432回起こったと記録されています。
毎日降り積もる火山灰は、積もりに積もって雨で土石流を起こすようになります。
火砕流の後は土石流。土石流の後は火砕流。とセットだったように覚えています。
火砕流よりは土石流の方が、避難エリアが多く被害としては家屋が押し流されるなど経済的にも大きかったのではないかと思います。
島原市内に住んでいた私は、火砕流は来なかったですが小規模土石流は自宅から徒歩数分の道でも発生するほど身近でした。
度重なる火砕流と土石流で慣れてきたこともあり、恐怖心は薄れていたと思います。
ただ、普通ではない生活が続いていたのは事実です。
災害時の生活の変化
自然災害にはいろいろな種類があると思います。
雲仙普賢岳の災害以降、日本では大地震がいくつも発生したこともあり「地震の災害」に着目されがちですが、島原の災害はその災害とは性質が異なるように思います。
雲仙普賢岳の災害の記憶は「蛇の生殺しのようだった」です。
噴火前と後では、変わらない生活がありました。
同じ家で寝食し、仕事も学校もありました。
変わったことは「火山灰で、ずっと薄暗い。洗濯物が干せない。体中が火山灰でギシギシする」「近所や会話が山の災害の話ばかり」「人が少しずつ減っていく」「人が減っていく=仕事が減っていく」
地域全体の活気が失われ、経済が衰退していく期間が急速に訪れます。
大火砕流は大きく報道されました。
その映像を求めて県外の人がたくさん来ました(主に報道関係者)
自衛隊の助け、県外からのボランティア。
テレビでも取り上げられ、多くの人が知るところです。
災害時に地域で生きるということ
災害地域でずっと生活している人たちはどうしていたのか。
私の父の話があります。
水無川で何度も発生する土石流の被害を防ぐため、火山活動継続する中砂防ダム整備が行われていました。
これは、全国放送でもあったのですが、火砕流発生による2次被害を防ぐため、この工事を遠隔操作で行っていました。
重機類を無人で、リモコン操作で行います。
その遠隔操作を行うため、無線基地が必要でした。
その機材がデリケートな為温度管理が必要ということから、小屋を作りエアコンによる空調管理をすることになり、そのエアコンの取付の為父に打診があったそうです。
簡単に言うと「火砕流発生エリアに行ってエアコンを取り付けてください」ということです。
私は、知らされていませんでした。(後日教えてもらいました)
父は「砂防ダムの建築と整備は多くの人にとって必要なことである」ことを理解していました。
誰かが行ってやらなくてはいけないなら、自分がやると決めたそうです。
山の様子を見ながら軽トラックで危険エリアまで行き、発生したら助からないけど、いつでも逃げられるように軽トラックのエンジンをかけたまま作業をしたそうです。
被害は最小限にと、1人で行ったそうです。
武勇伝を話したかったわけではありません。
災害に向き合い、自分たちの生活や故郷を守ろうとしていたことを知って欲しいと思いました。
「〇〇さんの家は大丈夫か?」「避難勧告が出たところに誰がいる」
自分たちで声を掛け合い、所在確認を行い、必要な情報を集めて身を守る。
火山灰の清掃(体積すると危険)や土石流の片付け。
父は、仕事をして生活して精一杯だった。
子供に子供らしい夢を見せてあげることができなかった。それだけが、心残りだと言っていました。
災害で知ったこと
私は、災害の途中で就職の為県外へ行きました。
災害の辛さは、2年ほどでした。
それでも、自分の生き方に大きく影響をしています。
地震の怖さ
もともと、地震を怖がる性格ではありませんでした。
発生しても「お?」と思う程度。
しかし、普賢岳噴火の5年前くらいから、地震が頻発し地鳴りがありました。(これは、夜寝ているときに、地面の下を生き物が動き回っているのかと思うほどだったという人もいます)
その5年後、山が噴火したことから、火山活動は5年前から始まっていたのではないかと話す人が多かったです。
それ以来、地震が発生すると言葉にならない不安感に襲われるようになりました。
地震発生時に、すぐテレビをつけるなど情報収集を行い災害を警戒するようになったことは前向きにとらえています。
連絡方法の確保
当時は携帯やネット環境がなく、置き電話や自分の足で動き回ることで情報収集を行っていました。
父はよく電話をし、近所のコミュニティへ出向き情報収集をしていたように思います。
後日、父に聞くと「溶岩ドームの大きさ(火砕流の規模にかかわる)と土石物や火山灰の体積情報(土石流の規模にかかわる)を区役所などの行政へ問い合わせたりしていた」と話していました。
情報があると、人の気持ちの在り方や行動が変わると思いました。
食べ物の確保
幸い普賢岳の噴火では、緊急での物資難はなかったと思います。
ですが、いつ食べ物が手に入らくなるのかという不安はありました。
逆の言い方もあります。
食べ物さえあれば何とかなるから、食べ物は貯めておきたいと考えました。
流通が途絶える可能性は、火砕流や土石流の現場ではなくても経路が断たれることは充分ありえることで準備は必要だと思いました。
自分にとって何が大切なのか
私の両親の話になりますが、災害時も災害後も、両親を支えたのは「家族を守る」という気持ちだったそうです。
必死になれたのも「家族がいた」から。
私が災害下、変わらず生活できたのは「両親がいた」からです。
自分にとって何が大切なのかを強く知る機会でした。
死の恐怖
火砕流で亡くなった人の話。
自分も死ぬかもしれないと思う不安と恐怖。
父が「子供達だけでも逃がす」と話していた時の気持ちは今も鮮明です。
未来への教訓
正確な情報収集
阪神・淡路大震災以降、メディアや通信機器で速報などの発信が非常に充実してきていると実感しています。
環境を整えなくても、テレビがあり携帯を所持していればしっかり情報が飛んでくるようになりました。
自分には関係ないとは思わず、知っておくことで自分の行動につながるよう努めています。
防災意識と準備
最新の非常用の食品や備品確認と備えをします。
自分や家族にとって必要なものや環境をしっかり把握し、TV,雑誌、SNSなどの情報を元に必要なものを準備するようにします。
連絡:携帯などに依存せず、電気が無い状況でも家族が会えるルールの確立。
食料:水の備蓄。保存食の確保。
今を生きる
火砕流で死ぬかも知れない。土石流に流されるかも知れない。
災害は、努力や思いだけではどうしようもない出来事です。
どこにいても、いつかやってくるのも災害です。
それならば、今現在を一生懸命に後悔のないように生きると私は実家を出るときに決めました。
